「生涯現役貫く」元国際審判員/プロフェッショナルレフェリー 吉田 寿光氏 「目立ちたがり屋な私としては…」インタビュー前編

 J1・J2リーグ通算主審担当「502試合」。JリーグのみならずJリーグ杯を含めると、「582試合出場」(副審を合わせると631試合)を果たした──いわば──プロ審判界の「先駆者」、吉田 寿光氏。1988年に3級審判員資格を取得し、そこから「審判道」まっしぐらの人生を歩んできた。「元プロフェッショナルレフェリー」であり、「元国際審判員」。

 そして今もなお、「生涯現役」の目標を掲げ日々トレーニングに励んでいる。

 サッカー審判.comでは、吉田氏に「特別アドバイザー」となって頂き、吉田氏ならではの経験やサッカー審判員としての独自の知見を長期継続的に伺っていこうと思う。審判員プロ制度の草創期を走り抜け、多くの大舞台を経験してきた吉田氏のキャリアには多くの批判、困難があった。そんななか、決してブレ動くことのなかった精神は、どのようにして手に入れたのだろうか。

 「前編」では、審判員を志したきっかけや、プロフェッショナルレフェリー(当時スペシャルレフェリー)となった経緯などを伺わせて頂く。

些細なキッカケから周囲の人に導かれ、審判の世界へ

ーー本日はよろしくお願い致します。吉田氏は筑波大学サッカー部出身だと伺いましたが、どのようなきっかけで審判員を目指そうと思われたのでしょうか。

吉田:「筑波大学で日本のトップのサッカーを学ぼうとしていたんですが、1年生の夏に内蔵の疾患を患い、練習に参加出来ていなかったので運営側のことをやっていました。関東大学サッカーリーグが行わていた西が丘でもベンチやスタンドで試合を眺めることが多く、そこで試合を見ながら、サッカーへの携わり方としての一つは『審判』があるなと感じていました。ただ、実際に審判をやろうとは思っていませんでした」

ーー大学卒業後はどのような進路を歩まれたのですか。

吉田:「大学卒業後は教員の道に進み、クラス担任を持ちながらサッカー部の指導者として、日々を送っていました」

ーーそこからどのようにして審判員として活動することになるのですか。

吉田:「教員2年目の6月に栃木県宇都宮市で関東高校サッカー大会が開かれたんですが、その頃 国際審判だった十河先生という方に『その大会に向けて審判資格を取得しなさい』と言われちゃって。勉強もまったくしていなければ、そこまで興味も持てていない状態でテストを受けさせられたんです(笑)しかし、勉強もしていないのでペーパーテストも十分に解けていないですし、合格点にも到達していないと思っていましたが、なぜか合格を言い渡されました。そして晴れて3級審判員資格を取得し、6月の関東高校サッカー大会に参加したことが初めのきっかけです」

ーーその後、審判員に興味を持ち始めたと。

吉田:「体力テストで1位になり、試験合格後にルールブックを渡され2ヶ月間必死に勉強をして、当時は若かったので吸収も早く、ペーパーテストでも1位になりました。目立ちたがり屋の私としては、関東でナンバーワンの呼び声の高かった審判員の方に勝つことが出来て『吉田が凄いぞ』という雰囲気になり、嬉しかったんです(笑)しかし、『審判もなかなかいいな』と思っていたくらいで、自ら始めようとは思いませんでした。

そこからの本格的なきっかけとしては、その年の夏に宮城県仙台市でインターハイが行われんですが、栃木県の2級審判員の先輩に連れられて、そこに行くことになりました。そこで全国の1級審判員の方々と交流を図り、刺激を受けたことが大きかったです。というのも、そこで母校である筑波大学の審判OB会があって参加したんですが、どの方も審判界のトップや国際審判員としてご活躍されていて、それだったら、俺もトップを目指してみようと思ったんです。選手としてはトップに行けなかったけれど、審判としてなら行けるのではないかと。そういった出会いや機会が無ければ今の自分はなかったと思いますし、周囲の人々に導かれてきた人生だなとつくづく思います」

ーー吉田氏の長い審判キャリアはそうした人の力が働くことで、導かれてきたのですね。

吉田:「そうです。関東高校サッカー大会が教員2年目の年に開催されていなければ、審判は始めなかったでしょうし、夏のインターハイに3級審判員で行かせて頂いたのも、筑波大学の先輩が連れて行ってくれたからです。そこに行っていなければ、筑波大学OBのトップの方々と会うこともなく、また、その方々に触発されずに終わっていたと思います。常に人の力が働いて今の人生があると思っています」

前途多難であった1級試験。幾つもの壁を乗り越え次のステップへ

ーー決意してからはどのような流れで審判員としてのステップアップを図られたのでしょうか。

吉田:「2級審判員から1級審判員候補に上がる時、東京で見極めのテストが行われました。私はそこで生まれて初めて大学生の試合を吹くことになるんですが、見極めのテストだと言い渡されないまま、試合に臨みました。拓殖大学の試合だったと思います。立ち上がり5分でどちらかのアタッカーがペナルティエリアの外でキーパーに倒され、今でいう『DOGSO』だったので、ファウルを吹きました。しかし、そのジャッジを下した直後にキーパーが立ち上がりながら相手アタッカーをドーンと殴打してしまって。それはもちろん一発退場。その後もイエローカードを合計7枚くらいを提示し、大荒れの試合になりました。大学生特有のスピード感であったりプレッシャーが初めてで、正直めちゃくちゃな試合でした。しかし終わってから、『実は1級審判員候補の最終テストだった』と告げられ、これは駄目だと思い込んでいましたが、年が明け自宅に一通のハガキが届き、『あなたは1級審判員候補だ』と。まさか通るとは思っていなかったので、それにはちょっと驚きましたね」

ーーその後、1級審判員を取得するまでの経緯はどのように進んでいったのですか。

吉田:「年が明け1級審判員のテストを受けさせていただきました。その過程にも色々なことがあって。予備テストの時は、受け持っていたクラスでインフルエンザが流行し、最後の最後に私がかかってしまったんです。症状がひどくなってしまい、ペーパーテストと体力テストを期日に行うことが出来ませんでした。これは駄目かと思いましたが、ご厚意で別日にテストを設けてくれて、無事合格。今だったら駄目だと言われているかもしれません。

予備テストの次の1次テストは、早稲田大学 VS 国際武道大学の主審でした。しかしその1週間前に祖母が亡くなってしまいます。テストまでの1週間、ほとんど何も準備を行うことが出来ず、早稲田に向かいました。

試合の前評判としては早稲田大学が圧倒的優位で大勝するだろうと言われていましたが、国際武道大学が奮闘し良い試合になり、縦へ縦へとスピーディな試合展開で、結果的に1−0で試合終了。私は走れることがセールスポイントだったので、その特徴をうまく表現することが出来たんです。ちなみに、私たちの試合が終わった後、第2試合目が行われたんですが、その試合の直前にゲリラ豪雨が突然来ました。5月だったんですが、当時で言うと5月の昼頃にそのような豪雨が降ることは全くと言っていいほど無かったと思います。グラウンドは水浸しになり、とてもサッカーが成り立つコンディションではありませんでした。天候はもちろん仕方ないのですが、仮に私が第2試合目の主審でしたら、うまく特徴を発揮することが出来ないまま終わっていたと思います。運が味方をしてくれました」

家族、自身の生活、仕事。そして審判への想い…「サッカーで食っていく」為にした決意

ーーそうして審判員としてのステップアップを図られるなか、吉田氏は教員としての顔もお持ちでした。意識していたことなどはありましたか?

吉田:「もちろんありました。まず第一に、学校で勤務している時は教員としての職務をきちっとこなす。学校での仕事を抜け目なく行うことで、審判としての活動も認められると思っていたので、クラス担任を持ちながら生徒たちと向き合う毎日でした。また、サッカー部の顧問としても、県立高校でしたがベスト8を刻めるようにまでなり、最終的にはその地域でサッカーがしたいと志す生徒が集まるようになりました。とにかくやるべきことをやって、学校内で『吉田はこれだけ頑張っているんだから審判もやってきてもいいよ』と言ってもらえるような環境を作り出すようにしました」

ーー当時のスケジュールはどのように構成されていましたか。

吉田:「とにかく目まぐるしくて、家と学校と審判現場の往復を繰り返した結果、片道約60キロの通勤距離でしたので、結果的に10年間で車3台を代えることになりました(笑) いま考えるとよくやれていたなと思います。1級審判員になり、子供が生まれ、教員としても忙しくさせていただき、自分自身の休みもなければ、家族との時間もほとんどない。夜は22時に帰宅し、翌日の8時15分からの職員打ち合わせに遅刻しないよう、朝6時には家を出なければならない。土曜日にJリーグの担当審判があると、日曜日にサッカー部の練習試合を入れたりしていました。怒涛のスケジュールのなか、なによりも妻の協力が無ければ成立しなかったなと思っています。感謝しています」

ーーそのような過密日程が続く中、それでも審判員を続けられた理由はどういったところにありますか。

吉田:「トップのサッカーに関わるようになり、学校の生徒たちへ還元することが出来るという恩恵を受けることが出来ました。『先生は日本全国や海外を回ってトップのサッカーを見ているんだぞ』と私自身の教育に説得力が増しましたし、特に自分に自信を持てない生徒に対し、希望みたいなものを与えることが出来た。地上波で私が審判をやっていると、そういったクラスの生徒たちは『俺の担任なんだよ』と周囲に話をしていたらしいんです。そのおかげで私のあだ名は『J』になってしまいましたが(笑)

サッカー部の生徒たちにも、当時Jリーグでプレーしていたストイコビッチなど、世界のトッププレイヤーを良い例に指導することが出来ました。また、私自身も『やるからには1番になりたい』と目指してやっていたので、無条件に続けることが出来ました」

ーー『やるからには1番になりたい』。一度始めたことはとことん突き詰めたいという吉田氏の性格が起因しているように思えます。

吉田:「そうかもしれませんね。それこそ今でも現役で審判を続けていますし、今でも突き詰めればフィジカル的な部分で研ぎ澄ませられると信じています。なので、走ることも続けていますし、審判としても100点満点の内容は難しいけれど、毎試合毎試合目的を持って、上手くゲームコントロール出来るのではないかと思っている。傍から見れば何をやっているんだと感じるかもしれませんが、そんな自分は変えることが出来ないんです」

ーー話は遡り、それまでの功績が評価された吉田氏は、2003年にスペシャルレフェリー(現プロフェッショナルレフェリー)となります。当時の心境を教えてください。

吉田:「2002年からスペシャルレフェリーが登用されたんですが、私はその2期生でした。2001年の秋に審判員のプロ制度が出来るということを当時 審判委員長の高田静夫さんから聞き、『吉田はどうだ?』と聞かれて。私は『やれるんだったらプロとしてやっていきたい』とその場で即答しました。家に帰って妻にそのことを報告し、『プロでやりたい』と告げました。私の予想としては、『もう少し慎重に考えなよ』と言われると思っていたところ、『あなたの人生なんだからあなたのやりたいことをやりなよ』と言ってくれて。その言葉が無ければ、プロの道に進んでいなかった可能性もあります。

西ドイツW杯決勝をダイヤモンドサッカーの生放送で見て、ゲルト・ミュラーやヨハン・クライフに憧れ、卒業文集に『西ドイツに行ってプロになりたい』と書きました。今もiPhoneの待ち受け画面は2人の写真にしています(笑)とにかく、選手にはなれなかったけど、『サッカーで飯を食っていく』という夢を叶えられるんだったらそれが1番だと、教員を辞めて2003年の4月からプロになりました」

 「後編」ではプロの世界に足を踏み入れた後どのような困難が直面し、その困難に対して如何にして向き合ってきたのかを伺う。そして、吉田氏が持つ「審判員としてのモットー」を聞いていきたい。