「神の手とVAR」エンターテイメントとしてのフットボールの価値

 フットボールの世界では見ている人たちやプレーする選手たちに少しでも分かりやすくより良い環境でプレー出来るようにと、日々工夫がなされている。近年で言うとVARの運用が2018−2019シーズンの競技規則から新たに規定された。

 選手やベンチスタッフは手にボールが当たると一斉に「ハンド!」とアピールをしてくる。それは我々が現役の頃からずっと変わらない。その厄介な事象である『ハンドの反則』に関する主要部分の書き直しや語句の言い換え、解釈の変更の明確化が2019−2020シーズンから続けて行われているが、『ハンドの反則』の見極めははっきり言って難しいというのが、私の正直な気持ちである。

 レフェリーも人間なので、その細かで複雑な条件を満たしているかどうかなどを瞬時に判断できない場合もある。だからこそ、VARを運用し主審以外の客観的情報を導入することで、この細かな基準を満たしているかどうかをチェックしようということだろう。

 

究極の主観こそレフェリーの味方

 

 しかし、VARがある環境のもと笛を吹いているレフェリーはどれだけいるだろうか?実際のところ、ほとんどいないだろう。現在VARが運用されているのは国内におけるトップやFIFAの大会など、各国におけるトップクラスのみであり、審判ドットコム読者のなかでも、VARを体験したことのあるレフェリーは本当にごく僅かだと思う。もちろん私も経験したことがない。つまり、我々はVARのない環境のもと判定を下さなくてはいけない。いつも言っていることなのだが、VARじゃない限り人間の脳内で映像をスローモーション化することは出来ないし、何回もリプレイすることも出来ない。また、レフェリーは最善の判定を下そうと適切なポジショニングを取る努力をするが、ピッチの至るところに目(カメラ)は設置されていないので、様々な角度からその事象を見ることも出来ないのだ。

 レフェリーにとっての味方とは『究極の主観』のみだ。研ぎ澄まされた主観に頼るしかない。主観を客観に近づける作業が必要だ。そのためには判定の原理原則を持っていないと難しい。主観が研ぎ澄まされていれば、見ている多くの人たちは納得してくれるであろう。逆に、研ぎ澄まされていない判定は、見ている多くの人たちに納得されないであろう。『練磨された主観』こそレフェリーの味方なのだ。

フットボールの魅力とは?

 

 あくまでもVAR未経験の『鈍感力』の強い私の個人的見解だが、VARが運用されるようになりレフェリーに与えられる精神的負荷が減ったと考える。万が一判定が間違っていたとしても、客観的情報が正解を見つけてくれるからだ。このようなことを言うと、「判定を覆した時の精神状態を分かっているのか!軽々しいことを言うな!」と現役トップレフェリーの方々にお叱りを受けるかもしれないが(笑)。私は、そのうち、全ての判定は映像をもとにしたAIが代替する時代が来るのではないかという心配を同時に抱いている。レフェリーもフットボールというエンターテイメントを構成する立派な一員だから、私はそのような未来を見たくはない。

 かつての『マラドーナの神の手』だって明らかな誤審だったが、その伝説は今にも語り継がれ、多くの人々が落胆し、そして、熱狂した。マラドーナというカリスマ性をある種、増長させた側面もある。今後、あのようなゴールが生まれることはないだろう。もちろん、あのゴールが認められたことによって悲しい結末を迎えた人々もいるだろうが、私は、それもこれも含めて全てがフットボールだと思いたい。

 

 1966年ワールドカップ、イングランドVS西ドイツの決勝戦。ジェフ・ハースト選手の打ったシュートがゴールライン上に落ち、映像を見る限り入ってはいないように見えるのだが、判定はゴールとみなされた。それが決勝点となりイングランドは優勝。開催地がイングランドでホームアドバンテージという心理が働いたのか、それとも、ゴールラインを超えたと当時の線審からは見えたのか、真実は分からない。しかし、イングランドは優勝し、この『疑惑のゴール』が取り沙汰されるなかで、ファンサポーターは、それをネタにお酒を交わし大いに議論したはずだ。今でもイングランドでは「入った」、ドイツでは「入っていない」と熱い話で盛り上がっているそうだ。それもまた人間らしく、フットボールの楽しさなのではと、つい昔が懐かしくなってしまう。

 白黒はっきりさせることが美徳とされる現在の風潮に合わせ考え方を変えなくてはいけないとは分かっているのではあるが…。