肩肘を張る必要はない。大事なのは「正しいこと」を自然に積み重ねること
私は53歳の時にJリーグレフェリーとして最後のシーズンを迎えたが、キャリアの晩年に差し掛かるに連れて経験値が凝縮され、選手たちと円滑なコミュニケーションを行えるようになっていた。私と選手のなかで信頼関係が構築され、リスペクトの気持ちを持って仕事をすることが出来ていたのだ。これは簡単なようで、実は本当に難しい。こちらも人間なので感情的になる瞬間もある。しかし、レフェリーとしてのキャリアを積み重ねるごとに心の落ち着きを手に入れ、肩肘を張らない『素の吉田寿光』としてピッチに立つことが出来た。長年Jリーグという舞台で戦い抜いてきた選手たちも、確かに私を信頼してくれていた。
そんな私も最初からベテランではなかった。私にも青く若い時があったし、レフェリーとしてのデビュー戦もあった。選手たちは当時の私など知る訳もなく、選手とのコミュニケーションに苦労した。いま思えば仕方ないのだが、ひとたび判定を間違えると「なんだその判定は!」と怒号が鳴り響いた。ときには娘よりも若い選手に「おいお前!」と言われ、私もムッとなり「審判が熱くなってどうすんだよ」と揚げ足を取られることもあった。
私はこの風貌からか、年齢よりも若く見られてしまうことが多い。一般的には喜ぶべきことなのに、レフェリーをするうえではディスアドバンテージになっていると感じていた。何歳になっても「なんだこの若造は」と言われ続けていたからだ。強面のレフェリーだったらば、威厳があるように見えることもあるだろうが、私は決して威厳があるように見える顔つきではない。なので、選手たちに対しても「舐められてはいけない」という心理が働き、その心理が人としてのプライドを助長させ、肩肘を張った吉田寿光を形成させていた。
しかし、そんな肩肘を張った吉田寿光が巧みなゲームコントロールを導いてくれる訳でもなく、どうすればうまくゲームをコントロール出来るものかと試行錯誤を重ね続けた。そして最終的には、本当の意味で周囲に認められるためには正しい判定を積み重ねるしかないと確信し、そこからは肩肘を張ることも無くなり、その価値観は揺るがなかった。
私は正しい判定を積み重ねていくことが信頼を築いていく第一歩だと思っている。実際に判定の精度を上げていくことでレフェリーとしての資質が向上し、一人の人間として受け入れられるようになった実感があった。これはあくまでも私個人としての意見だが、レフェリーはある程度長くやらないと駄目だと感じている。いくら若くて良いレフェリーであっても、それを積み重ねるから少しずつ認められる訳であって、瞬く間に信頼と実績が構築される仕事ではないからだ。ある種どんな仕事にも共通する話ではあると思うが。
レフェリーにとってやりやすい選手とは、メッセージを汲み取ってくれる選手
レフェリー陣と協力関係を結ぼうとする素晴らしい選手もたくさん居た。鹿島アントラーズのレジェンドであり昨年は監督も務めた相馬直樹さん、元川崎フロンターレの司令塔 中村憲剛さん、サンフレッチェ広島などで活躍したストライカー 佐藤寿人さん、元FC東京の快速ウィンガー 石川直宏さん、元横浜F・マリノスのボンバーヘッドこと 中澤佑二さんは、レフェリーが伝えようとするメッセージを汲み取ろうとしてくれる選手として記憶に残っている。
私がレフェリーとしてのキャリアを積み重ねると同時に、その選手たちもJリーグを支えるベテランになっており、ずっと同じピッチに立つなかで信頼関係を少しずつ築いていった。何よりも、「レフェリーも選手も一緒に楽しいゲームを作りましょう」という心意気を持ってくれていたことが有り難かった。 ときには私に「おいお前!」と吐く新人選手に対し「吉田さんにそんなことを言うな」と言ってくれる選手もいたりした(笑)。
余談だが、私は試合前のコイントスを行う際、遠くから足を運んだアウェーチームに色をチョイスする権利を与えるようにしていた。そうすると、だいたいの相手のホームチームのキャプテンは『いいですよ』と承認してくれるのだが、中澤さんの場合は「いやいや、だめです(笑)」なんて言ったりして、両チームが和みフェアプレーで臨めるようなコミュニケーションを図ってくれていた。そんな中澤さんは、タイトにボールを奪いにいくセンターバックだったのにも関わらず、ほとんどカードを貰わないクリーンで素晴らしい選手だった。汚いことをしない。相馬さんもそう。激しく攻守に関わっていくのだが、その全てがクレバーだった。そういった選手たちと同じピッチに立っていると思わず「すげーな」と、尊敬の念を抱いてしまう。
メッセージを伝えるため創意工夫する過程が人としての成長をもたらしてくれる
『メッセージ』という言葉が出てきたが、メッセージはあらゆる手段を用いて伝え続けることが大事だと思っている。ファウル・ノーファウルの判定も一つのメッセージだし、軽い笛を吹いて「なんでそんなことやっちゃったの?」とメッセージを伝えることもある。限りなくイエローに近いファウルだったら強く「ピーッ!」と吹くこともあるし、フェアプレーが続くなかでのファウルであれば比較的やさしくメッセージを伝えることもある。我々も選手を罰するためにレフェリーをやっているのではなく、ピッチに立つ選手たちが輝くために最適な環境を提供するといった任務を遂行するためにレフェリーをしている。その「良いサッカーをしてくださいよ」という我々のメッセージが選手に伝わると、どんどん選手たちも良いゲームを作るために協力してくれるようになるし、そのような協力関係を結べた時は本当に良いゲームになっている。
レフェリーとは人間としての修行に近い。たとえば、海外で笛を吹く時と日本で笛を吹く時とでは、メッセージの伝え方は違わなくてはいけないと考えている。海外の場合だと、 「Stop it!」と言ってもなんの問題もないが、日本の場合だと表現の方法が様々にあるため、この命令口調が威圧的に捉えられ、意図したメッセージが伝わらないことがある。本当に危険なプレーの時は「やめろ!」と表現していたこともあったが、「なんでそんな命令口調なんですか?」と言われてしまうことも多々あった。
尊敬語があったり謙譲語があったり、特に東アジアでは年上を敬う儒教の精神が深く根付いているので、それらの文化なども踏まえて、試行錯誤していく必要があるのだ。
日常生活でも同じだろう。社会とは、それぞれの背景を持った多種多様な人たちが交わっているが、メッセージの伝え方や受け取り方は、人の数だけある。そのなかで、「どうすれば自分の考えていることが相手に伝わるのだろう」。あるいは、「どうすれば相手の考えていることを理解することが出来るのだろう」といった試行錯誤を重ねる過程に、人間としての成長があるのではないだろうか。